時間に追われている自分に気づいてみる

効率が優先する現代、人は時間に追われて生活している。時間に追われて心も体も悲鳴を上げている。時間に追われていることを実感し、少しでも時間に追われない自分を作っていくことが大切である。

忙しい現代社会ではどれだけの人が時間に追われて生活をしているのだろうか。人は時間に追われることによって悲鳴を上げているのではないだろうか。心も体も悲鳴を上げているのにもかかわらず、時間に追われていることによって負荷がかかっていることを実感していない。追い詰められていると感じないのでさらに自分を追い詰めてしまい、仕舞いには心か体かあるいは両方が破綻してしまう。

人が時間に追われているときの行動はどんなものがあるのだろうか。例えば、幅の短い道路で信号が赤のときに渡ってしまう人が多い。道路交通法違反である。違法行為をしてまで信号を渡るのはなぜだろうか。車がきて事故に遭うかもしれないリスクを冒してまで渡るほど時間に追われてるからではないだろうか。時間に追われずに余裕があるのであれば待てるはずだ。

駅のエスカレーターを駆け上がる人がいる。日本ではもう急ぐ人のために右側、あるいは関西(大阪だけ?)では左側を空けるという風習までできている。自分の足で登りたい人は危ないので階段を使ってもらいたいところだ。だが、エスカレーターを駆け上る。1分1秒を争ってエスカレーターを駆け上がることに価値はあるのだろうか。

駅でのケースを挙げるなら自動改札機でたまたま前の人が引っかかったとき、その人に対して舌打ちをする人がいる。なぜだ。急いでいる自分の行く手を遮ってしまったことに対する舌打ちだ。同じように、せかせか歩いているときに、たまたま人が横切ってくると舌打ちをする。

頻繁に時間を確認したり、寝る時間をもったいないと感じてしまったり、人を「使えない」呼ばわりしてしまったり、時間に追われることによって出てしまう焦りのような行動をよくする人は注意したほうがいい。

時間に追われているとギスギスした雰囲気が出てしまうので、人に対していい印象は与えない。その結果、自分の周りから人がどんどん離れていくし、信用されなくなってしまう。特に利害関係がなくなったときに人が周りにいてくれるかどうかでわかるはずだ。また、自分がいろいろがんばっているつもりでも結果がついてこないことが多いと思う。自分は時間に追われているのでがんばっているつもりだが、果たして周りから見てどうだろうか。

そういうことを続けているうちに、ついには心や体が参ってしまい、重い病気を患ってしまい、長期間にわたって療養する必要が出てきてしまう。長期のあいだ病気療養をしていれば、それだけ社会から離れてしまうことになる。そうなってはじめて気づくのである。自分はいったい何をやっていたのだろうかと。

そうならないためにも、いまの段階から時間に追われないように注意していきたい。よく「時は金なり」という。だが「時は金」ではない。「時は時、金は金」である。自分の使う時間を時給換算して時間とお金を無理矢理むすびつけているから時間の価値をお金の価値と同一化してしまい、時間の価値によってしか得ることができない大切なものを失っている。自分を大切にする時間、家族や恋人、友達との時間、これらの時間はお金の価値に置き換えることはできない。

お金も大切、時間も大切、だがそれらは決して同じ価値を持つものではない。だから、時間もお金も別々に考える必要がある。時間とお金の価値を結びつける必要はない。

では、時間に追われないようにするためにはどうすればいいだろうか。それは時間に追われているときの行動と反対の行動を取ることで、時間に追われない自分を訓練することができる。

例えば、エスカレーターでは駆け上がらずに立ち止まろう。迷わず左(一部の地域では右)に乗ろう。赤信号ではしっかりと待とう。どんなに短い道路で車がきていないことがわかっていても待とう。これは訓練だ。また、青信号が点滅して赤信号に変わろうとしているときに走って渡ってしまおうとしないようにしよう。1回待ってもいいではないか。

これらの訓練を続けているとあるとき、いままで自分が無駄に時間に追われて切羽詰まった状態を作り出していたことに気づくことができる。不思議と落ち着きも出てきて、何事にも動じないようになってくる。

落ち着いた人間になると、見えなかったことも見えるようになってくるし、人として成長することもできる。私も実践中だが、少なくとも落ち着きが出てきたと思うし、丸くなったねとよく言われるようになった。

自分が切羽詰まっているなと感じている場合は是非試してもらいたい。